2024年01月18日(木) 「また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜな ら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているか らです。」Tヨハネ3:22
「また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜな ら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているか らです。」Tヨハネ3:22
好きになれない人がいるだろうか。口を開けば人の悪口、噂話、 又、自慢ばかりする人、人のあら探しをする人、常に不満と愚痴ざ んまいの人。好きになるのは無理と思うかも知れない。しかし、聖 書には相手を好きになれとは書かれていない。好きにならなくとも よい。「愛しなさい」なので、愛することはできる。 聖書の中の「愛」はすべて「意志的愛」で、感情的な「好き」では ない。愛するというと、どうしても感情を連想してしまうが、感情 の事はいっさい言っていない。そうでなく、意志で愛する事だ。感 情はコントロールできない。しかし、意志はコントロール出来る。 意志で、御霊に示された事を行なう事が、愛することだ。 毎日の生活の中で、困っている兄弟がいるなら、自分に出来る事を し、自分の持っているものを分けることだ。「世の富を持ちなが ら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者 に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」。自分に出来るこ とをすればよいと。現実の人生では、例えば塩狩峠のような、実際 に命を捨てるような事は、余程でないと起きない。 困っている目の前の人に、あわれみの心を閉ざさない事、自分に出 来る事をする事、それなら出来るのではないだろうか。そしてその 示しに従う時、自分が真理に属するものである事を知り、御前に心 を安らかにされる。大胆に神の御前に出る事ができ、求めるものは 何でも神からいただくことができる。何と祝福だろう。 -------------- 私達もそうして兄弟姉妹から愛されているのではないか。愛が自然 に生まれて来ない事を認めて、愛せるようにと主に祈っていこう。 互いに愛し合う事は主の御心だ。必ず与えられる。