2024年02月16日(金) 「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなか った・・すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。」 ルカ24:16
「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなか った・・すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。」 ルカ24:16
エマオ途上の弟子達は、主が十字架で死んでしまい、深い失望落胆 にあり、「暗い顔つき」であった。喜びも平安も希望も失ってしま っていた。主が、かたわらを歩き、話しかけて下さっているのだ が、それが主だとわからなかった。失望落胆にある時、主が見えな くなる。すぐそばに、かたわらにおられる主が見えない。 サタンが、人間を信仰から離すために、心に蒔くために、効果的な 種は「失望」だと言った。人が失望してしまう時、祈る力も奪わ れ、失せてしまう。しかし事実は、私たちが、どんなに主が見えな い時も、わからない時も、主はすぐそばにおられる。自分が主を感 じられなくても、見えなくても、共に歩んで下さっている。何とい う慰めだろう。 主を感じる時には共におられ、感じられない時は、共におられない のではない。そして不信仰は主を見えなくする。「愚かな人たち・・ 信じない、心の鈍い人たち」「彼らの不信仰とかたくなな心をお責 めになった」主は不信仰は、はっきりと間違っていると言われる。 「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。 あなたは今、失望しているだろうか。不信仰に陥っているだろう か。自分の思い通りにならないせいだろうか。しかし、問題は、信 じようとしない、かたくなな、自らの心だろうか。自らの不信仰と 認めて、悔い改めよう。その時、導いて下さって、今の状況を、境 遇を通して、必ず主の栄光が現れるようにして下さる。 ------------- 失望し一人でとぼとぼ歩いているように思える時がある。心は塞が れていても主が共におられる事を覚えていたい。御言葉を開き、主 との交わりを始めよう。