2024年07月18日(木) 「しかし、弟子たちはイエスに言った。『ここには、パンが五つと 魚が二匹よりほかありません』」マタイ14:17
「しかし、弟子たちはイエスに言った。『ここには、パンが五つと 魚が二匹よりほかありません』」マタイ14:17
男性だけで五千人、女性子どもも入れると大変な数の群衆が、主の 話を聞きに集まっていた。時刻も過ぎて来て、弟子たちは主に、解 散し各自食物を買いに行かせて欲しいと願った。すると主は、あな たがたで食べ物を上げるようにと。弟子たちは、ここにはパンが五 つと魚が二匹しか無いと答えた。 その時、主は「それを、ここに持って来なさい」と。結果的に、主 は、そのごく僅かな物を用いて奇跡をされた。たったそれだけの物 で、大勢の群衆全員が満腹した。主は、私たちの手にある物を、主 のもとへ持って来るようにと。私たちの手にあるものは、5つのパ ンと2匹の魚であり、極めて小さなものかも知れない。 だが、どんなに無きに等しいようなものでも、それが自分の手か ら、主の御手に渡る時に、主の栄光を現わすものへと用いられる。 私たちは、こんな微少のものが、何になろうと思う。何の役にも立 たないと。しかし主が受け取って下さり、用いて下さる。そして主 は、食物をご自身で配られたのではなく、弟子たちに渡された。彼 らが、それらを群衆に配った。 主が奇跡をされたが、実際に配ったのは弟子たちだ。主は弟子たち にその働きを任された。人々に糧を届けるために、私たちをも用い て下さる。自らの知恵、資源、力でなく、人々に与えるものを、主 が与えて下さるということだ。主から渡されたものを、人々に渡 す。主が下さる証しを人々にする。主が下さる物を、人々に届け る。そして通り良き管として、喜びに満たされる。 ----------- 自分の持っているものの価値を自分で決めて判断してしまう。何と 不自由だろう。主に渡すなら主の力が働くことを信じていきたい。 主に手渡せない思いも祈りたい。