2024年11月17日(日)

「パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを 聞き入れなかった。主の言われたとおりである」出エジプト8:15


苦難の民の叫びを聞き、主は、民の救出を計画され、モーセを
遣わされた。主は、次々と超自然の奇跡を起こし、モーセは、パ
ロに立ち向かった。パロは、苦しみが臨むと「私は罪を犯した」
「私の罪を赦してくれ」と言う。一見、悔い改めのようだが、その
災いが収まると、手の平返しで、再び強情で頑なな姿に戻る。

これは、それらの言葉は口先だけで、心では思ってはいない。真の
悔い改めは、方向変換なので、行動が変わり、実を結んで行く。主
は「わたしが主であることを、あなたがたが知るため」に、しるし
を行なうと。しかし、強情なパロにとっては、次々と起きるしるしが、
主を知る事にはならず、脅しのようなものであった。

だから、その脅しが取れたなら、再び強情になり元に戻った。私た
ちはどうだろう。もし高ぶっていたなら、主は、へりくだるようにと、
私たちに苦しみを送られる。これこそ主の愛だ。しかし、その苦し
みをパロのように、単に脅しと取るなら、余りの苦痛に神妙になる
のだが、その苦しみが去ると、元に戻り、そのままだ。

罪を犯した時も、結果がまずいと思うだけで、口先の悔い改めなら、
変わらない。本音では、自分は悪いと思っていない。結果が痛く、
又、体面が悪いだけだ。真の悔い改めに至らないので、実を結ぶ事
がない。しかし御霊に導かれた悔い改めは、必ず実を結ぶ。砕かれ
た、悔いた心を祝福し、御霊は豊かな実を結ばせて下さる。へりくだり
を求められているだろうか。

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悔い改めは、御霊から来る。御霊の働きだ。御霊が与えて下さる
ものだ。自分では悔い改められない。御霊の示しがある時には、従おう。
一歩従う時に、今まで見えなかったものが、見えて来る。次の展開へと
導かれ、一歩づつ成長させて下さる。