2025年05月18日(日) 「私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたの ためにキリストの御前で赦したのです。これはサタンに欺かれ ないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではあり ません」Uコリント2:19
「私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたの ためにキリストの御前で赦したのです。これはサタンに欺かれ ないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではあり ません」Uコリント2:19
ある人が職場で、面と向かって批判され、ひどい言葉で攻撃さ れた。それが筋違いで、なぜ自分に言われなければならない のか、ひどく傷ついた。更に、人々の前でもあり、プライドが傷 つき、怒りが沸き、赦せない思いで一杯になった。しかし人を憎 むこと、赦せない思いは、自分自身が苦しい。 心が重苦しく、悶々状態だ。そんな中、異動があり、その相手は 顔を合わせる事も無くなった。内心ほっとした。正直嬉しかった。 だが、しばらくして気づいた。憎しみは消えない。目の前にいなく なっても、赦せない思い、恨みは強く、辛くてたまらなかった。頭 では、赦せば自由になる事がわかる。 それなら赦せば良いのだが、どうしても赦せない。忙しい時は紛 れて、思いに無いのだが、空いた時間があると、ふっと来て、心 に暗い影を落とす。楽しい時も楽しくなく、牢獄の中の囚人のよう だ。サタンの攻撃も感じる。心重くて、主の御前に行き、ありのま まを打ち明けた。 赦せない事、憎しみ、恨み・・しかし苦しくて、もし解放されるなら そうしたい事・・葛藤があったが、このままではおれない。ずっと 御前で思い巡らし、考え、祈り、赦すことを決意した。意志を持 って行った。「赦します。助けて下さい」と祈った。するとあれほど 苦しかった心が、落ち着いて驚いた。主のみわざだった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 赦すことは非常に難しい。しかし、苦しいのは、相手でなく自分 だ。人にはできない事が、神にはできる。いろんな人々が、赦 す事を、主の取り扱いのもと経験していて、そのプロセスも、 人により様々だ。主に求めよう。自分にふさわしく導いて下さる。