2004年05月18日(火)

「・・霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」(ヘブル12:10)

ヤコブは兄のエサウをだまして、長子の権を奪い取った。そのため兄の怒りを買い、家を出なければならなくなった。野宿の不安な夜、ベテルで神に出会う経験をした。これからどうなろうと、決して捨てないとの約束を得た。神は一旦手に握ったヤコブを、決して捨てないで最後まで導かれる。私達も同様だ。ヤコブは叔父のラバンのもとに身を寄せる。狡猾なヤコブはここでも計算を働かせるが、更にうわてを行くラバンに何度もだまされる。自分がエサウにした同じ事を、今度は我が身に受ける。自分がした事は、訓練となって自分に返る事を悟る。苦しみと辛さの中で狡猾なヤコブは砕かれて行く。試練とはそれに会う人を裸にすることだ。試練の中で、裸の自分が出て来る。本当の自分がどんなものか、そして本当は何を求めているかがあらわにされる。地位、名誉、富、人からの賞賛・・。試練を通して聖められる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
試練の時に、普段は絶対に現れない、平常は潜んでわからない自分が出て来る。そして、まず本当の自分を知らない限り、聖められようがない。醜い、どこまでも自己中心な自分を認める事を求められる。その時、神のみわざがすでに始まっている。このような者が、キリストのかたちに変えられて行く。