2004年10月17日(日)

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け・・エルサレム、ユダヤ・・および地の果てまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)

私達は誰しも主の証人になりたいと思う。御言葉によると、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき」だ。証人とされる鍵は聖霊だ。自分の力では決してない。聖霊によってだ。主が私のぶどうの木で、あなた方は枝、人がわたしに留まるなら豊かな実を結ぶと言われた。主と一つとなって、生き生きとした交わりがある時、聖霊が自由に働かれ喜びがあり、平安があり、自然に証しとされる。喜びは大きな証しだ。世は喜びを心のそこから欲している。しかし手に出来ない。喜びは御霊の実であるゆえに。喜びや平安を禁じる律法はない。罪を捨て、自分自身を明け渡して御霊に導かれるよう、御霊に満たされるように祈ろう。主の証人として用いて下さる。
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裁判でも証人とは自分の見た事、聞いた事、経験した事を証言する人だ。事実を見ていなければ証人ではない。頑張りではいっさいなく、自分自身がまず神の素晴らしさを知り、満たされる時、周囲に自然に証しとなる。御霊に満たされること、御霊に導かれる事を求めよう。