2007年08月18日(土)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩篇119:71

ヨブはある日、何もかも失って
しまった。持ち物を盗まれ、しも
べ達は殺され、若者達が焼け死に、
家が倒壊し、子供達が全員死んで
しまった。又、ヨブ自身も、身体
全体を悪性の腫瘍におおわれ苦し
んだ。それはヨブが死を願うほど
の苦痛だった。ところが訪ねて来
た友人達は「だれが罪がないのに
滅びた者があるか」とヨブが罪を犯
していて、罪ゆえの苦しみだと、傷口
に更に塩を塗った。罪を捨て不正を
捨てるなら苦しみは去ると。神は最後
に友人達を怒り叱責された。「わた
しについて真実を語らず」と。ヨブ記
を読むとヨブの罪の結果、様々な苦
しみが来たのではない事がわかる。
しかし、自分に苦しみが襲うと、因果
応報と思っているクリスチャンは多い。
何か悪い事をした罰が臨んだと思う。
更に恐れと不安に陥る。私達の中に
培われた、苦しみの無い事が善で、
苦しみは悪との価値観ゆえだ。祝福
と痛みは相容れない。しかし、神は
信仰人生には、数多くの痛み苦しみ
が臨むと言われる。苦しみは罪では
ない。決して罰などではない。私達
の益のためだ。それらを通して、どん
なに神に近づけられた事だろう。痛み
は主が受け止め、必ず慰めを豊かに
与えて下さる。
・・・・・・・・・
主は十字架で呪いも罰もすべてかたを
つけて下さった。私達には祝福しかない。
痛みも苦しみも、後に必ず幸せでしたと
言える。因果応報の根深い価値観の所を
御言葉に替えよう。