2007年12月18日(火)

「そのようなものは・・謙遜とか・・のゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」コロサイ3:23     


謙遜は、単なる自己卑下ではない。
「ことさらに自己卑下を・・肉の思
いによっていたずらに誇り」。自
己卑下は肉のものであり、それは
謙遜でなく、高ぶりだ。神の御前
で、神に対してでなく、人前で、
人に対してのものだ。自分をよく
見せようとの肉であり、又、自己
満足だ。パリサイ人も会堂や通り
で施しをし、通りの四つ角に立っ
て祈った。しかし、人に見せるた
めであり、肉の謙遜であった。肉
の謙遜は、賢いもののように見え
るが、肉のほしいままな欲望に、
何のききめもない。主は謙遜であ
られた。その謙遜は、死にまで従
い、十字架の死にまで従われた。
主の謙遜は、従順にあらわされて
いる。どこまでも御父に従順であ
られた。謙遜とは、主に「はい」
と言うことだ。主の御心に「はい」
と従うことだ。自分の思いが強い
と、なかなか従えない。自分のプ
ランや自分の思いの方がどう見て
も良いと思えるので、自分の道を
行ってしまう。しかし、それは自
分が主の上に立ち、判断している
ことだ。又、謙遜は、悩みのまっ
ただ中で、主を信じて、主に委ね
て行く。主の力強い御手の下にへ
りくだるとは、思い煩いをいっさ
い主に委ねる事だ。神が心配し、
責任を取って下さるゆえに。今、
主は、あなたに「はい」を求めて
おられるだろうか。
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人の思いと努力でいくらでも取り
繕える肉の謙遜よりも人前を気に
せず弱く震える自分でいよう。御
言葉に従えない罪をいつも意識し
ただ、神様にのみ真実に向き合お
う。