2008年05月18日(日)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」ルカ9:23

自己中心、自己主張、自己愛を捨てて、
自分の十字架を負い、ついて来るよう
にと、主は言われた。自分を捨てる決
心をする時、その一歩を踏み出す時に、
「日々に」自分の負うべき十字架を示
して下さる。自分が探し回るのではな
い。御霊はこれが十字架だと指し示さ
れる。ある主婦が、突然、祖母を3ヶ
月あずかることを頼まれた。他にみる
人が誰もいない状況だった。祖母に来
てもらうのはよいが、自分自身が、夜
勤もある非常に多忙な仕事をしていて、
到底無理だった。しかし、祈った時に、
目の前に与えられた負うべき十字架だ
と示され、負うことを決心した。信仰
によって引き受けた。仕事との兼ね合
いをどうすべきか、祈ると、「あすの
ための心配は無用」「あすはあすが心
配」から、とにかくいっさい明日は考
えず、今日一日だけ生きようと決心し
た。そのように一日一日を過ごした。
明日の重荷は取れて、一日なら生きる
事ができた。そして、主は助けにより、
夫と子供達が全面協力してくれたのだ。
この事で家族が一つとされた。主の守
りと支えの中で、無事3ヶ月のお世話
を全うできた。親族にも良き証しとさ
れた。何より信仰によって歩む素晴ら
しさを知れた。自分に死んで、今日示
される主のみこころに従おう。
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御心に従って行く時に、その人には神
が必ずわかる。ヨハネ7:17。生き
ている目的は、自分の損得でなく、主
を更に親しく深く知って行く事だ。御
霊に助けられて御旨に歩もう。