2009年02月15日(日) 「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうのよいことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師を自分のために寄せ集め」Uテモテ3:3
「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうのよいことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師を自分のために寄せ集め」Uテモテ3:3
聖書はタウンページではない。タウンページのようにして、その時の自分の状況 や、自分の思いに沿って、ピッタリ自分に合った御言葉を懸命に探そうとする。 が、それは御霊からでなく、自分で都合の良い御言葉を探している。自分の思い を遂げようと、自分の願いを裏付ける御言葉を探し出し、自分の思いを御言葉で 正当化する。結局は、神を喜ばせるためでなく、自分を喜ばせるための信仰だ。 心地良い箇所は受け入れるが、罪をはっきりと示され、悔い改めを迫られたり、 肉を指摘され、自らの欲望を指し示されたりすると、耳が痛くて耳をふさいでし まう。聞きたくない。とにかく痛い言葉はよけて、避ける。 しかし、重大な病気の時には、医者に診察してもらい、原因を突き止め、手術を 受け、治療をしなければ、死に至ってしまう。聞きたくないからと、耳をふさい でも、病気はどんどん身体をむしばんで行く。 現実を認め、的確な対応が必要だ。痛い言葉こそ、聞く必要のある言葉だ。なぜ 痛いのか、うすうす気づいているからだ。だからこそ向き合いたくない。 しかし、きちんと向き合う時、傷と病を示されるが、すでに治療が備えられてい る。自分を喜ばせているか、それとも神をお喜ばせようとしているか。御言葉の 聞き方に目を留めよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 自分の願いばかりが中心なら、願望が強くなると、主観で御言葉を取ってしまっ て気づかない。願望と合致しているから気づけない。肉はどこまでも自分を喜ば せようとする。神は私に何を望まれ、神の喜ばれる事は何か、に視点をおく時、 守られ正しい方向に向かう。