2026年06月13日(土)

「苦しみに会った事は、私にとってしあわせでした。 私はそれであなたのおきてを学びました」詩篇119:71



この世界では、信心は、病気、けが等悪い事が起き
ないため、良い事のためだ。商売繁盛、家内安全・・
受験はすべて合格、畑は豊作、商売は大儲け・・それ
が願いだ。そのための信心だ。しかしまことの神へ
の信仰は違う。受験は合格も、不合格もある。不合
格は祝福されていないのではない。

豊作も不作も通る。だが主に在る時、すべて祝福へ
と結実して行く。必ず試練があり、その苦しみのプロ
セスにより、主の似姿へと変えられて行く。試練を通
して、いかに自我が強く、自分の思いが強く、自己中
心であるかを知らされ、砕かれて行く。苦しみにも様
々ある。自らの罪の結果としての苦しみ、人から受け
る理不尽な苦しみもある。

主は試練として、苦しみを与えられる。もし自分の非
による苦しみなら、悔い改める時に、完全に赦される。
だが蒔いたものは、必ず刈り取る。蒔き刈りの法則
がある。ダビデも姦淫と殺人を犯した時に、悔い改め
て、罪は完全に赦された。しかし厳しい刈り取りがあ
った。痛い刈り取りがあるが、主のあわれみは尽き
ず、それすら訓練として、更に私たちの益のために、
用いられる。

主と共に、主に導かれて刈り取って行く事が祝福とさ
れる。主の尽きないあわれみと、慈しみを知る時とさ
れる。試練があるが、信仰者は必ず乗り越えて行け
る。一つ一つの試練により成長して行ける。忍耐が培
われ、信仰を強くされて行く。忍耐が練られ、品性が
生み出される。必ず後の日に、「苦しみに会ったこと
は、しあわせでした」と言えるようになる。

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負の出来事が起きると、祝福されていないように思え
て、寂しく感じるだろうか。周囲は皆、幸せそうに見える。
しかし状況や感情でなく、み言葉に立とう。苦しみから
霊的学びを得て、祝福へと導かれて行く。