2026年10月10日(土) 「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただく りかえしてはいけません。彼らはことば数が多け れば聞かれると思っているのです」マタイ6:7
「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただく りかえしてはいけません。彼らはことば数が多け れば聞かれると思っているのです」マタイ6:7
生まれた時から偶像に囲まれて、育って来た私 たちは、くどくどと、とにかく時間をかけ、量を多く 拝めば、聞かれると勘違いする。数珠を繰りなが ら唱えたり、何時間もかけて拝む姿を見聞きする ので、同じ言葉の繰り返しでも、熱心に祈るなら 聞かれるのでは、と思ったりする。 そして、自分軸の信心なので「神よ、ああして、こ うして、あっちへ行って、こっちへ来て」式の祈り をする。願いが聞かれないなら、そんな神は必要 無いのだ。欲しいのは、自分に都合のよい神だ。 とにかく自分に良いように、人生が回って欲しい。 人生途上で、主に出会ったクリスチャンも、長年 培われた価値観が潜んでいて、自分のための神 になってしまったりする。 ところが、そうではなく、「お願いする先に必要を 知っておられる」神だ。神が知らないから、必要を くどくどと、知らせるのではない。では祈りは何の ためだろう。神が状況に無知かのごとく、一部始終 を説明する必要はない。熱心に祈って、祈りを手 段として、祝福を得るのではない。あなたよりも、 本当のあなたをご存じの主が、目の前におられ、 その方は御子を殺すほどに愛して下さった。 親は子が心配する先に、子の必要を整える。私 達は自分に何が真に必要で、最善かがわかって いない。祈りの中で、それを教えられる。祈りの 中で、自分が変えられて行く。御心がわかり、そ れを求めて行く。必要をご存じだから、祈らなくて よいのでなく、「だから、祈りなさい」だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 主とは雇用関係ではない。気持ちの無い祈りの の量と数の問題ではない。主とは信頼関係に ある。主が、何もかもご存じでいて下さるから、 気持ちも告げて、ゆだねて行ける。