2009年04月13日(月)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24



信仰生活の中で、無意識ゆえ、なかなか気づかないが、古い価値観、生まれつきの価値観が成長を阻んでいる事がある。

御言葉によらない、自分の理想や、自分の生まれつきの好み、考え方だ。
ストレートな欲望や肉ならまだわかりやすい。
それらは、霊と肉の葛藤はあるが、祈りに持って行ける。

祈りに出して行ったなら、それは必ず聞かれて行く。ストレートな悪は、よくわかる。
だが、理想や、自分の良かれと思う思いも、同じく肉であり、神から離れている。
その自分が良いと思う思いを、判断や行動の土台に据えているなら、御心と正反対の方向へ向かってしまう。

主がこれから苦しみを受け、殺されると話された時、ペテロが「そんなことが起こるはずがない」と否定した。
その時、主はペテロに向かって「下がれ。サタン」と言われた。
ペテロの考え、良かれと思った思いは、サタンからのものだった。

培われた価値観や自分が良いと思う考えは、御言葉に基づかなければ、敵に利用されて反対方向へ向かう。
だからそれに引き続いて、「自分を捨て」と言われた。
自分が良かれと思う、思いを捨てなければ、主について行けない。

ストレートな肉ではなく、良いと思う思いが曲者だ。自分の思いを捨てて、主のみ思いを求めて行こう。
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まがい物、にごった思いを識別するためには、上からの純真な御心を知らなければならない。間違えやすく迷いやすい思いを、一つ一つ神様に尋ねて行こう。一見、良い事の後に言われた主の「自分を捨て」は大きな警告だ。