2010年01月17日(日)

「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ・・」ルカ8:18

ただ単に、御言葉をぼやっ〜と、聞いていればよいのでなく、聞き方に「注意せ
よ」と言われている。

イスラエルの民は皆、モーセから神の言葉を聞いていた。しかし、聞いた言葉が
「信仰に結びつけられ」なかったため、最後まで神を疑い、結局は不信仰によっ
て荒野で滅ぼされてしまった。

モーセは神の言葉を語った。聞く側に問題があった。信仰に結びつける事が大切
だ。種蒔きのたとえで、種は御言葉で、土地は心だ。道ばたに落ちた種は土が固
く、心に入らず、サタンが来て御言葉を奪い去った。

先入観や偏見があると御言葉が入らない。又、他人事として聞く態度だ。自分の
事として聞かないので、素通りする。まるで目の前で映画でも見ているように、
傍観者として聞いていないか。

御言葉は「自分に」向けられている言葉として受け取らない限り、無益だ。自分
の事として受け取る心が「良い地」だ。必ず豊かに結実する。

岩の上に落ちた種とは、喜んで御言葉を受け入れるが、根が無い。根を張るのは
地中だ。隠れた神との関係を培う事が大切だ。人目に見えない神との交わりの地
道な生活が根だ。それが無いと枯れてしまう。

いばらの中の種は、外部から伸びたいばらにふさがれた。外部のものによって生
長が妨げられる。世の様々な事柄に心が奪われ、いつしか神がおそろかになって
しまう。それは仕事や趣味など、全然罪ではない良いものかも知れない。良いも
のだけに気づかない。

自分はどんな「聞き方」をしているか、よく省みてみよう。御言葉を、愛して、
へりくだって、「従います」の態度で聞こう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
「聞き方に注意せよ」と言われている。聞いている「つもり」で、右から左なら、
結実が無い。御言葉により自らを吟味し、示されている事に従おう。従う時に、
自分が変えられ、主を新たに知り、自分も恵まれ、周囲にも神の栄光を現して行
く。