2010年05月17日(月)

「あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり・・」創世記3:5


エバは神のようになりたいと、木の実を食べた。二人の目が開かれた時に、神のようになったのだろうか。そうでなく、自分達が裸であることを知った。裸を恥じて、恐れて隠れた。しかし、木の実を食べる前も裸であったが、それは恥ではなかった。裸自体に何の変わりも無かった。

見方が変わったのだ。自分のあるがままの姿ではおれなくなった。あるがままの姿を見せる事ができず、互いに隠さなくてはならなくなった。神のようになろうと、自分を神にして、自分が王座に座り、自己中心に物事を見る時に、裸が恥であり、恐れとなった。

自分が神にならなければ、神を神とし、自分は被造物であれば、裸は全く恥でも恐れでもない。神に造られたものとして、弱ければ弱いまま、欠点があるまま、神に感謝を献げ、神を喜び、神が創造された自らを受け入れて行ける。そこには感謝と平安と喜びが必ずある。

自分が神になるなら、欠点や弱さは受け入れられない。人に絶対に弱みを見せたくない。自分が自分を受け入れられずに裁いている。神がそのように創造された事を認めず、受け入れられず、反抗している事になる。そこに平安も喜びもなく、心は辛く苦しい。自分が神になっているからだ。自己中心に気づき、へりくだって神を認める時、必ず平安と安堵が臨む。
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幼子がその親に依存しすっかり安心しきっているように、私達も自分から解放され、神様依存の中でのびのびと生きて行けるはずなのに何と愚かな事をしているのだろう。神様が選び特別に創造して下さった事を感謝し高ぶりから守られますように。