2010年12月17日(金)

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」ヘブル4:16


ある人が、多忙な日々を過ごしていた。早朝出勤の深夜帰宅で、次々とこなさなければならない業務に追われ、心身クタクタになりながら、少しづつ、神が後回しになって行った。その内、何とか持っていた祈りの時間も失せて行った。これではいけないと思いつつ、目の前の状況に流されて行っていた。

段々自分の思い、自分の知恵で歩むようになり、御言葉も心に響いて来なかった。悪循環になり、ますますイライラ、ピリピリして、思い通りにならない周囲をさばいて行った。仕事も更に忙しく、心に余裕がなく、しんどくてたまらなかった。余りに心が苦しくなり、聖書を開いた。しかし、文字を追うばかりで、全く心に入って来なかった。祈ってもみたが、心が集中できず、何の変化も無かった。

心重く、渇いて次の聖日に礼拝に行った。その時、賛美の十字架の歌詞が、ぐいぐい迫り、心にしみた。何もかも捨てられた主、十字架の死にまで従われた主、主のその犠牲の愛、真実が、乾ききったスポンジが水を吸い込むように、心にしみて来て、メッセージの一言一言に心が溶かされ、満たされて行った。

真実なる主は、苦しみから祈った、あの小さな祈りを確かに聞かれたのだ。その祈りに答えて下さった。どんな小さな祈りも聞かれている。主のもとに行き、心の内を告げよう。
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いくらでも神様との交わりは後回しにできるから朝から動き回ってしまう。しかし霊の部分は渇いていて、祈らなければ、との御霊様の促しを感じるだろう。神様の御前に黙し祈る時を守ろう。朝毎に必要な力と恵みで新たにされる。