2011年08月17日(水) 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、 そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、 そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24
信仰者の生活は、信仰を持つ前と、どこが違うのか?何が変わったのか?日曜日 になると教会へ行き、聖書を読んだり、祈ったりする事だろうか。それも変わっ たが、何かをする時に、その動機が変えられて行っている。 以前は自分中心に動き、動機は、あくまでも自分の損得であった。自分の利益に なるか、損失になるかが判断基準であった。得にならない事などする理由がない し、損失になる事などとんでもない。そんな事のために、時間も、労力も、富も 使いたいなどと思わない。 しかし、今、判断基準は自分の損得ではない。例え、自分の損失になっても、主 に従おうとしている。軸が自分から主に変わり、主のお心かどうかが判断基準だ。 そして、自分の利益にならなくとも、主の御心を行なおうとし、実際、行なう時、 心に何にも代えられない、御霊の平安と喜びを経験する。 以前は、自分の欲望を満たす事が幸せであり、喜びであり満足だった。そのため に生きていた。しかし、その満足は一瞬であり、又、心は渇いた。アダムが罪を 選んだ結果、「神のようになり」の通り、自分が神となって生きて来た。 原罪ゆえ、自分軸にしか考えられない者が、主のお心を求めている事自体が奇跡 だ。真の喜びと幸せは、自分を捨て、御心を行なって行くところにある。 ・・・・・・・・・・・・・・ 善い事をしても自分のためであり、自分の損得でしか、生きる事ができない肉な る者が、自分の損になっても、主の喜ばれる事を、御心を行おうとしている。全 く自分の利益にならない事を、しようとする事自体が、主のみわざであり、そこ に真の喜びを見い出す。