2011年12月15日(木)

「私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います」エレミヤ42:6


                    
         
民は、エレミヤに、神の御声に聞き従うと言いながら、この国にとどまれとの示しに従わなかった。良くても悪くても全面的に従うと言いつつ、実は、エジプトへ逃げる事をすでに決めていて、その認め印が欲しかった。私達はどうだろう。御声に従うので、御心を求めると言いつつ、実は心では自分の願望、すでに決めた事が確固としてある。

それを保証し、後押ししてくれる都合の良い御言葉を探し出す。自らの願望が強いと、そうしていて気づかない。結局、自分の考え通りに行ない、自分の思いを遂げ、無残にも失敗する。ユダにとどまれば、バビロンに殺されるのではと、民は不安と恐怖におののいていた。神が救い出すと語られたにも関わらず、それを信じないで、御声に従う事なく安易な方へ進んだ。

私達も、自分の欲望の声に従うのは心地良いし、楽だ。それにひきかえ、神の御声は時として厳しい。しかし、自分の都合に御言葉を合わせると、民のように不信仰に陥り、神に反逆して行く。私たちも簡単に「はい、主の御声に聞き従います」と言うだろうか。しかし、本心はどうだろう。祈りが必要で大切だ。

自分の願望、強い肉の思いがあり、聞き従いたくない本心を認め、主に従えるように祈ろう。その時、主が働かれ、助け、御声に聞き従うことができるようにして下さる。
------------
良くても悪くても従うとはなかなか言えない。従えない、従うのは恐いと、そこから主に渡していこう。従う気もなく御言葉を読み飛ばしている不信仰を今朝は示され、また御言葉に誠実に向き合う思いを与えられ感謝だ。