2012年02月15日(水)

「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」ルカ18:13


主は、私たちをあわれんで下さる。しかし、あわれみを求めるには、へりくだった心が必要だ。へりくだっていなければ、あわれみを求めることは出来ない。私たちは、何かマイナスの出来事が生じると、自分はなんと不幸せでかわいそうと、人からの関心、思いやり、同情を求める。

しかし、だからと言って、主の御前に「こんな罪人の私をあわれんでください」とあわれみを求めるとは限らない。なぜなら、自分の惨めさ、弱さを認めることは別だからだ。プライドが許さない。そこまで弱くはない、まだ自分で何とかできると思っていたい。それを認めるのは、余りにも惨めだと思っている。だから、尚も自分の力に頼っている。

しかし、神のあわれみは、尽きることがなく、それは朝ごとに新しい。無力感を感じる時に初めて、自分には力があると思っていたことを知る。主が、取り扱いを通して、試練を通して、自分がいかに無力であるかを教えて下さる。自らの無力を知る事こそが、実は大きな祝福だ。

その時、「主よ、あわれんで下さい」との叫びが出る。そして、又、自分の強い自我、どうしようも無い頑なさを知る時には、「主よ、あわれんで下さい」と祈ることができる。そして、主はその祈りに答えて、豊かにあわれんで下さる。
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本当の自分の無力さに気づかず、少々のストレスもまだあの人よりまし、あの時よりましと頑張り続けるなら、信仰生活どんどんぶれて行く。神様の前に自分の罪も弱さも醜さも認めて、へりくだり尽きないあわれみを受けよう。