2012年05月17日(木)

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」ヨハネ9:3 


この世は、因果応報の価値観であり、私たちもずっとその価値観で生きて来て、根深いものがある。何か不都合な事、悪い事が起こると、バチが当たったと思ってしまう。何か悪い事をした結果であり、何だろうかと考える。当時のユダヤ社会でも、そのような考え方があり、弟子たちが、生まれつき目の見えない人を見た時も、そのように反応した。

盲目に生まれた原因は、「誰が罪を犯したのか。この人か、その両親か」と。弟子たちはその事の「原因」に視点があり、原因追及に走った。しかし主は、原因ではなく、「目的」に目を向けられ「罪のゆえではない、神のわざが現れるため」と答えられた。そして、つばで泥を作り、盲人の目に塗って、シロアムの池で洗うように言われた。言われた通りに従うと、彼は見えるようになった。

結果的に、彼は目が見えないままで、シロアムの池まで行ったわけであり、簡単な事ではなかったろう。目に泥を塗られ、まして見えない身で、シロアムの池までとは、「何でこんな事を?」と思いそうだが、理屈を越えて、最後まで従順に従った。そしていやされた。従順はへりくだりだ。高ぶっていては従えない。私たちも、病気、けが、リストラ、経済的困窮、対人関係のもつれ・・様々な問題を通るが、どんなに苦しい事、辛い事があっても、それはその人を通して、神の素晴らしさが現わされる機会なのだと。最後まで従おう。
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そんなことでいいのだろうかと御言葉通りに従えない思いがやって来る。不幸の原因を追究し、理屈で納得したいが、ただ御言葉の通りだ。信じて従った者が主の栄光を拝する。