2012年07月17日(火)

「それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう」民数記22:19

モアブの王バラクがバラムを招こうと使者を遣わした。それは、イスラエル人に恐怖を抱いたバラクが、バラムに彼らを呪うよう要請するためだった。しかし、バラムは神の御心がはっきりとわかっていた。「彼らと一緒に行ってはならない。民を呪ってもいけない。その民は祝福されているからだ」と。

バラムがその事を伝えると、バラクは、更に多くの使者を遣わした。するとバラムは「主が、私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう」と言った。主の御心がはっきりしているのに、それ以上何を確かめる事があろう。目の前の問題は従うかどうかだけだ。「従う」ことが、御心でありなすべき事だ。

私達も同じ事をしていないだろうか。つまりは、本心は、神の御心を求めているのではなく、自分に都合の良い答えが欲しい。様々な偶像を巡っている人がいた。自分の求めている答えをくれる人に行き着くまで、巡り歩いた。答えがすでに決まっていて、しかし、誰かの承認が欲しい。私達もしばしば、答えを求めているのでなく、承認を求めているだろうか。

しかし、いつでもどんな時でも、主の御前に悔い改め、助けを求めることができる。聖霊は、私たちの自らの状態に気づかせて下さる。あなたも御心を示されているのに、尚もぐずぐずして、何か他のお告げと求めているだろうか。その示された御心に信仰もって従おう。「前進せよ」。
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御心がわかっているのに従いたくない思いが勝り、どちらにも中途半端で前進できないという経験をする。決断するための承認が欲しいが、それも間違っていると薄々感じているのではないだろうか。従う力が与えられるように祈ろう。