2012年11月16日(金)

「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」詩編62:8


ダビデは、王であり絶対権力を持つサウルに、絶えず追われたいた。命をつけ狙われ、実際、槍をダビデ目がけて、投げつけられた事もあり、どんなに恐怖で不安だったろう。絶えず死と隣り合わせだ。しかし、ダビデは、サウル王を倒すチャンスが目の前にあったのに、決して手にかける事はしなかった。「私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ」と。そして「私があなたの命を大切にしたように、主は私の命を大切にして、すべての苦しみから私を救い出して下さる」と、どこまでも信仰に立ち、御心の中に立った。

そう出来たのは、ダビデが絶えず、主の御前に自分の心の何もかもを注ぎ出し、訴え、泣き、わめき、感情をぶつけたからだ。不安、思い煩い、怒り、苦しみ、悲しみ、愚痴、嘆き、不満、何もかもを主のもとに持って行った。建前、きれい事でなく本音を赤裸々に告げた。隠された底の気持ち、感情を主に受け止められる時、心が癒される。詩篇の様々な箇所で、まずダビデは主に気持を訴えている。

そしてその後、それらは賛美に変えられている。13篇では「主よいつまでですか。私を永久にお忘れになるのか、いつまで御顔を隠されるのか」「心には一日中悲しみが・・答えて下さい」と。しかし、「私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います」と賛美に変わる。心の底をことごとく注ぎ出そう。状況は変わらずとも、必ず心に平安が与えられる。
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心を注ぎだして祈ることで目はしっかり神様に向けられ、自我も祈りの中で砕かれて行く。祈りを通して目の前の状況から心が守られ御霊の支配の中に入っていける。