2012年12月17日(月)

「ムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれらをお許しにならなかった」使徒16:7


私たちが主の導きを、進路を求める時、「環境」をよく見て行くことは重要だ。パウロが二度も環境によって、行く手を阻まれた。「アジアでみことばを語る事を禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方を通った」ビテニヤに行こうとしたが、ストップがかかったので、トロアスに下った。東から来て、南も北も閉じられたので、西に向かった。阻止された理由は、神のご計画が、ヨーロッパ宣教にあったからだった。もし、御霊の阻止がなければ、違った方へ向かっていただろう。

私達にも神のご計画があり、時に行く手にストップをかけて導かれる。ある志があって、しかし門が開かれず、状況が整わないなら、それは神の御心ではないという事だ。入試類が、不合格なら神の御心でない。「ノー」が神からの答えであり、御心は別の道にある。更にふさわし道が備えられている。しばしば私達は、ストップがかけられると、導きを失ったと勘違いし、道に迷ってしまったような不安、心細さを感じる。

だが、そうでなく、そこが御心ではないという「導き」だ。次の導きを「待て」ばよい。環境の閉じ開きによって、導きを知る事ができる。門が開かれたなら、その方向に進んで行けばよい。御心の門は、目の前で、ひとりでに開いて行く。神が開かれる。自分でこじ開けるのではない。必ず目の前で門が、開かれて行く。御言葉、祈りによる平安共に、状況をよく見ていよう。
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神様は環境の全てを通して導かれる。それを信じておれるとは、なんと心守られることだろう。ある方向はストップであっても落ち込む必要はない。御心の環境へとまた望みをもち導きを待てる。