2013年01月17日(木) 「彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった」マルコ3:1
「彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった」マルコ3:1
パリサイ人から、主は、麦畑を通った弟子達が、安息日に穂を摘んだと非難された。主は安息日は人間のために設けられたのであり、人間が安息日のために造られたのではないと言われた。その後、主が安息日に会堂に入られると、そこに片手のなえた人がいた。パリサイ人は、主が安息日に、その人を直すかどうかと、じっと見た。それは、主を陥れるためであった。何という冷淡な心だろう。 主を訴え、自分達を正当化するために、手のなえた人を利用する。その手のなえた人が癒されるという奇跡を見ても、何の感動もなく、主を殺す相談を始める。何ということだろう。しかし「自分は正しい」に立つ時、自分もまたパリサイ人になっている。その態度の原因を「その心のかたくななのを嘆き」と、心の頑なさによると言われた。 心は頑なになり、感覚が失せていた。愛や憐れみや同情に無感覚だ。それは主の殺害計画にまで発展して行く。なぜここまで頑なになったのか。自分を正当化し、心に生える苦い根を引き抜かず、はびこらせ育て上げてしまった。あなたにも苦い根は無いか。憎しみ、妬みの根は放っておくと殺意に増幅する。実際、彼らは妬みで主を十字架につけた。一方、主は愛と憐れみで心が一杯であった。同じ「じっと見る」目が何と違う事だろう。根にあるものに気づかされ、明け渡して行こう。 ------------ 頑なな心は目を曇らせ、見るべき主の恵みもご愛も御心も見えなくさせる。苦い根は熟成させずに主に持って行き、いつも柔らかい心で御霊に身を委ねて行こう。