2013年03月17日(日)

「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れ て、隠れました」創世記3:10



アダムとエバがエデンの園で、サタンから誘惑を受け、善悪の知識
の木から実を取って食べた。それは、神から食べるなと命じられて
いた。「必ず死ぬ」と。罪を犯した結果、霊が死に、神から離れた。
彼らは、神の御顔を避けて、身を隠した。罪は、神と人をしゃ断し
てしまう。

「ふたりの目は開かれ」とあるが、開かれた結果、「いちじくの葉
をづづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」。夫婦二人し
かいないのに、夫婦で違いに、隠し合うようになった。善悪を知る
目は、愛し合い、信頼し合い、思いやり合うのでなく、責め合い、
裁き合い、疑いの目となった。又、自分の本当の姿があらわにされ
る。それで、神に対して恐れて隠れた。

神は、悔い改めの機会を与えようとされた。「あなたは、食べては
ならない、と命じておいた木から食べたのか」。食べた事を認めて、
「ごめんなさい。食べました」と言うべきであった。しかし「この
女がくれたので、私は食べた」と、エバに責任転嫁し、エバのせい
にする。まさに、罪の性質そのものだ。エバも同じく、蛇が私を惑
わしたと、蛇のせいにした。

ましてや「あなたが私のそばに置かれたこの女」と、神のせいにま
でする。これが自分自身の内にもある罪の性質だ。もはや、神が見
ておられるように見ることができない。自分が王座に座り、自分の
目で見る。

主は常に悔い改めの機会を与え、悔い改めに導いて下さる。悔い改
めて、いつも主との交わりの中に生きる時、隠れる必要がない。喜
びと安堵、平安と感謝の中で生きて行ける。何と幸いな事だろう。

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「あなたはどこにいるのか」と問うて下さっている。神と距離があ
るなら、今すぐ立ち返ろう。「・・食べたのか」と悔い改めのチャン
スを与えて下さっている。恐れを閉め出す、愛と赦しが豊かに備え
られている。