2013年05月17日(金)

「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」Tヨハネ3:18


どうしても好きになれない人がいるだろうか。いつも悪口や噂話ばかりする人、短気ですぐに怒る人、自慢ばかりの人、人の批判ばかりの人、不満と愚痴しか言わない人・・。好きになるのは無理と思うかも知れない。しかし、聖書は、一言も相手を好きになれとは言っていない。「好きになれ」でなく「愛しなさい」と言っている。

愛する事は、好きになる事ではない。好きでなくとも愛することはできる。だから、御言葉は実行する事ができる。聖書の中の「愛」はすべて「意志的愛」だ。感情の愛ではない。愛と言うと、感情的なものを連想するが、そうでなく、意志で愛することだ。感情はコントロールできないが、意志はコントロール出来る。そう造られている。愛するとは祈ること。まず祈ろう。

又、日常生活で、困っている兄弟がいるなら、自分に出来る事をし、自分の持っているものを与えることができる。自分に出来る事をすればよい。それが愛するという事だ。「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざす者に、どうして神の愛がとどまっているだろう」現実では、実際の命を捨てるほどの大きな事は起こらないだろう。しかし、困っている人に、あわれみの心を閉ざさない事、自分に出来ることをする事、それなら出来るのではないだろうか。御霊に示されている事があれば、愛する事を実行しよう。
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愛せないのではなく、愛さないのかもしれないとの心をもって苦手な人や隣人を見てみよう。何か祈れる事がある。愛を実行していく中で、自分自身の霊も主によって豊かに養われて行く。