2013年11月16日(土)

「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなた です」詩篇39:7


イスラエルの民は、約束の地カナンを目指して前進し、神を信仰し
て来た。その約束の地に入れば、信仰は必要無いのかというと、そ
うではない。良い地に入って、食べて満ち足りた後も、「主の命令
を守って、その道に歩み、主を恐れなさい」と。

神を信じて生きるのは、何かを貰うためではなく、それ自体が目的
だからだ。ある人がどうしても欲しいものがあり、祈りに祈って、
主に訴えた。何が何でも欲しい、余りにも強烈な願望に、ある時、
神からもぎ取ろうとしている自分の姿を見せられ、恐ろしくなった。

これなら、自分の欲しいものが手に入るなら、対象は何でもよくな
ってしまう。「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」と
のサタンの誘惑だ。悔い改めて、明け渡した。時に間違ってしまう。

信仰を、自分が良く生きるための、又、欲しいものを得るための、
手段にすると、何もかもが的はずれになる。自分の生きがいのため
の手段、自分の喜びを得るための手段、問題解決の手段、人格者に
なりたいがための手段としてしまう。それなら、自分の思い通り、
期待通りでない時に、必ずつまずいて、失望落胆し、迷路に入り込
み、神から離れる事になる。

又、それなら実質も実感も無い、形だけの信仰になる。何かを与え
られても、与えられなくても、神ご自身を信じて生きる事、神を喜
ぶ事、神を礼拝して生きること、これが目的だ。

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問題から助け出されること、必要なものが与えられること、祝福を
もらう事だけに、目が奪われているだろうか。与えて下さっている
お方のほうに目を向けて行こう。与え主のほうが大切だ。このお方
を知って行けるように祈ろう。