2014年02月14日(金)

「そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた『エジプトの地で・・私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに』」出エジプト16:3



イスラエルは、目の前で紅海が分かたれるという、偉大な主の奇跡を見て、主エジプトを果たした。後にも先にも無いような、驚異的な輝かしい奇跡だ。民はどんなに大歓声を上げ、喜びの叫びだった事だろう。しかし、それも束の間、荒野に入った途端、やれ水が無い、食べ物が無いと、不満噴出で、モーセに食ってかかる。さっき神の偉大な全能の力を見たばかりで、その神が共におられるのだ。

信じておれば良いだろうと思うが、しかし、イスラエルの姿は自分の姿だろうか。自分に都合良く、順調に行っている時だけの感謝で、ちょっと状況が厳しくなると、不平不満、愚痴、恨み事が出て来る。感謝も恵みも吹っ飛んで、更には神を責め始める。その後は、民は「どうして荒野になど連れて来た」「飢え死にさせるためか」「エジプトにいた方が良かった」「エジプトに帰ろう」とまで言い出す始末だ。

何が問題なのだろう。常に自分を中心に、物事を見ていて、自分軸で世界が回っているので、「自分の思い」が第一、「自分の感情」が何よりも大事、そして「自分の損得」で動いてしまう。自分が王座に座っている。険しい状況になった時に、主はどう思われてるのか、主のお心は、主の導きは、との発想が飛んでいる。

自分は〜でなく、主は〜に、神視点に立つ時、心に平安が湧き出て来る。主は善い方であり、愛して下さっていて、最善をして下さることに目が行き、信じて行ける。今、主と状況のどちらを見ているだろう。
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試みや問題の中で主を忘れ、つぶやく民は自分の姿だ。主を見ていなければ不満とつぶやきがやって来る。海でも地でもつぶやき続けた荒野の民の思い出し、つぶやきは祈りに変えたい。