2014年05月17日(土)

「私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠 しておきました。さあ、どうぞ、これがあなたの物です」マタイ2 5:25



信仰生活が辛くて、苦しいだろうか。いつも要求されて、追い立て
られているように感じるだろうか。喜びなどほど遠く、クリスチャ
ン生活が重い。一タラントを預かり、地に埋めたしもべが出て来る
が、その主人像が「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさな
い所から集めるひどい方」そして「恐い」、ひどい、恐い主人だっ
た。

こんなひどい主人のために、何かをしたいなどとは思わない。失敗
でもして、減らしでもしたら、どんなひどい目に会うか。このまま
返せば文句は無いだろう。どうか自分に、関わらないで欲しいとの
態度だ。

しかし、主人は、しもべをこよなく愛し、大きな信頼をもって一タ
ラントを委ねてくれている事が全く飛んでいる。しもべは失敗する
かも知れない。しかし、主人は、その失敗のリスクをも、自身が負
った上で、預けてくれている、その心がわからない。

私たちも「〜ねばならない」になると、重荷がどっとすべて自分の
肩にかかり、信仰生活が辛いばかりになる。要求されるばかりで、
担いきれないと感じる。あえぎながらの生活だ。そうなると、主が
過酷な主人になる。

しかし、断じてそのような主人ではない。そのような大きな信頼を
もって、預けてくれた主人を、喜ばせたい。主人の愛と信頼に応え
たい。それが商売の動機だ。そして単に成功失敗の成果でなく、
「忠実」を受け止めてくれる主人だ。それを知っているから、自由
に生き生きと、喜びもって持てるものを生かして思う存分働けた。

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主人の心は、1タラントのしもべへの信頼と愛であった。しもべは
神観がおかしかったので、姿勢が間違っていた。蒔かない所から刈
り取るひどい方でなく、惜しみなく独り子まで与えて下さった方だ。
主の愛を覚え、忠実に仕えて行く時、喜びが与えられる。