2015年04月16日(木)

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」マルコ4:40




主が、ガリラヤ湖を渡ろうとされた。「さあ、向こう岸へ渡ろう」
と言われ、舟をこぎ出した。すると途上で嵐に会い、舟は波をかぶ
り、水でいっぱいになった。弟子たちは、嵐の怖さを知っているか
らこそ、おじ惑い、身に危険を感じた。このままでは舟は沈没して
しまう。しかし、主は平然と眠っておられた。

「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのです
か」と不満いっぱいに主を起こした。主は向こう岸へ渡ると言われ
る。しかし目の前の現実は、向こう岸どころか、沈没寸前だ。御言
葉と見える所とが合致しない。ペテロも「深みに漕ぎ出して、魚を
とれ」と言われた時に、現実と御言葉が合致しなかった。

でもお言葉通りに従った時、大漁の奇跡を見た。嵐を大なぎにされ
た主は、弟子たちに「信仰がないのは、どうしたことです」と言わ
れた。嵐が問題なのではなく、信仰の問題だと言われた。主のお言
葉一つで、「黙れ、静まれ」で、嵐は止んだ。状況の問題ではない。
「向こう岸へ渡ろう」が主の御心であるので、おぼれて死ぬことは
絶対に有り得ない。

ましてや、主が同船しておられ、沈む事などあるはずがない。
私たちも信仰生活で、様々な嵐が起きる。その時こそ、信仰が試さ
れる。目の前の状況と、主の言葉をが相反する。ペテロのように、
「でも、お言葉通りに」従ってみよう。主のみわざを見る。
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いつまでもたっても、嵐になると主と共に平安に眠ってはおられな
い者だ。問題が起きたときに慌てて主に叫ぶのではなく、いつもの
生活の中に主を認めて、同船しておられる主をじっと見ていたい。