2015年06月16日(火)

「また、なぜあなたがたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3



「梁」とは屋根を支えるために、柱と柱の間に渡した横木で、大き
な頑丈な丸太だ。「ちり」は目にも見えないほどの微少、極小のも
のだ。他人のそんな極小のちりはよく見えるが、自分の目にある丸
太は見えないということになる。なぜあの巨大な丸太が見えないの
か不思議だが、「自分」中心に「自分の」メガネをかけて見ている
時、何も見えなくなる。

「自分の」価値観の中で見ているからだ。つまり、自分は正しいと
いう事で、相手がおかしくて、間違っている。自分は正しいと思い
込んでいるし、信じ込んでいる。その「自分は正しい」のメガネで
判断するので、いっさい見えなくなってしまう。そうすると、暗闇
なので、ますます自分は正しく、人は間違っている事になる。

アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べた時から、人は神によら
ずに、「自分で」善悪を判断するようになった。そのため、自分の
目が曇り、自分の目に偏見があれば、その目で見るものはすべて歪
んで見える。悪いのは自分以外で、自分はますます自己正当化して
行く。自分のことが見えていないということが、わからない。こう
いう状態であれば悲しい。

御霊がこの暗闇状態を照らし出して下さる時に、初めて自分の梁が
見える。その時方向変換して行ける。自分が変えられて行く。御霊
の光により、正しく御心の方向へと導かれる。信仰生活、御霊の気
づきが何よりも感謝だ。矯正され、新たにされて、成長へと導かれ
て行く。
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人のちりを見つけると批判的な思いになる。全てを知っている訳で
もないのに、決め付け、偏見で人を見ている。自分こそが大問題だ。
御霊の光により自分を見て、自分が変えられるよう祈りたい。