2016年07月17日(日) 「ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた」使徒14:8
「ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた」使徒14:8
生まれつきの足なえの男性がいて、一度も歩いた事がなかった。パ ウロが御言葉を語っていた時に、その人が丁度そこに座っていて、 じっと耳を傾けていた。彼は生まれつき歩く事ができず、自分の足 に関して、何もどうする事もできなかった。どうやっても歩く事は 不可能だ。完全無力の状態だった。 自分で何もする事ができない。だからこそ、パウロの「自分の足で、 まっすぐに立ちなさい」との言葉にすがりついた。彼にはこの言葉 しかなかった。すべての望みを託してこの言葉を信じて賭けた。こ の言葉がすべてだった。自分が完全に無力だからこそ、そうできた。 その信仰に、神の力が働き奇跡が起きた。 かつて一度も歩いた事のない彼が、飛び上がり歩き出した。私達も 自らの徹底無力を知る時が、信じる時だ。何の方策も無く、何もど うにも出来ない。信じるしか道がない。その時に初めて「信仰」が 働く。自分の力、方法に頼っている限り、自分を信じている限り、 神への信仰は無い。信仰半分、自分の力半分というのは無い。 幾ら御言葉があっても、必ず自分の力、方法でやって行く。そこに 信仰の入る余地がない。信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を任 せて行く事だ。御言葉にすがりつく事だ。ゆえに、自らの無力を知 る事こそが大きな祝福であり、幸いだ。無力こそが祝福の道だ。 ・・・・・・・・・・・・ 徹底無力の時こそ、委ねることができて、すがることができる。自 分にまだ力がある時は、自分でやってしまう。何とかしようとして しまう。無力の時は、自分に頼れないので感謝だ。主の大きな恵み の中だ。