2016年09月16日(金)

「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」ヨハネ4:14



一人の女性が、カンカン照りの日中に井戸に水汲みに来た。人を避
けての事だった。そこに主が話しかけられた。男性が女性に、又、
ユダヤ人がサマリヤ人に話しかける事など無く、驚いた。会話する
中で、主の「わたしが与える水を飲む者は決して渇く事がない」に、
彼女は「その水を下さい」と願った。

よく意味もわからなかったが、井戸から汲まなくてもよい水なら欲
しいと思った。その時に主は「あなたの夫を呼べ」と。水が、なぜ
夫なのか?彼女は、夫?ん?だったろう。だが、グサリ!とも来た
だろう。最も触れて欲しくない部分だった。今いるのは夫でなく同
棲相手だった。「私には夫はありません」と何とか、かわした。

しかし主は尚も「その通り。夫が5人いたが、今いるのは夫ではな
い」と。言い当てられて驚いた彼女は「あなたは預言者ですか」、
「ユダヤ人は礼拝する場所はエルサレムだと言うが、どうなのか」
と問うと、「誰でも、どこでも真の礼拝者たちが父を礼拝する、そ
れが今来ている」との答え。彼女は「キリストが来られることを知
っている」と言うと「わたしががそれだ」と。

主を信じた彼女は、街の人々に「来て見て」と、主を紹介した。隠
れていた彼女は180度変えられた。主は、命の水に導くために、グサ
リと核心を突かれる。私たちにも痛い部分があるだろうか。隠すの
でなく、そこに来て頂こう。主の血潮ゆえに、赦し癒し、自由にし
て下さる。平安と喜びへと導かれ、真の礼拝者として下さる。
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渇いた私たちにも主は会いに来てくださり救われた。けれど今も自
分自身で埋めようとしている痛みや苦しみはないだろうか。渇いて
いるなら飲みなさいと言われる主の水をいつも求めていこう。