2017年06月16日(金) 「イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。『このことであなたがたはつまずくのか』」ヨハネ6:61
「イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。『このことであなたがたはつまずくのか』」ヨハネ6:61
信仰人生で、私たちがつまづくのは、どんな時だろう。よく考える と、「自分の」期待に合わない時ではないか。どこまでも「自分の」 願いに、思いに、そぐわないゆえに、つまづいていないだろうか。 自分に利害関係の無い事で、人はひどくつまづく事はない。 「自分の」気持ちや、願いを、相手が受け止めてくれない時、「自 分の」思い通りにならない時に、つまづいたと思う。そして、そん な神なら離れてしまう。自分の願いが叶えられないなら、信心する 意味がない。偶像ならそうだろう。当時の、主の周囲にいる人々は、 主を現世的、政治的指導者、現世の王として、主を求めた。メシヤ として華々しく王位につく事を。 しかし、現実的にはどうか。王になるはずの主が、十字架にかから れるなどとは。到底受け入れられない。人々は「自分たちの」思い 通りでない、主を捨て去った。自分の期待通りでない、その期待を 裏切る主が腹立たしい。裏切られた気になる。私たちもどうだろう。 信仰人生が自分の期待通りに行かない、思い通りでない、願いが叶 えられない。その時につまづくだろうか。 その時の軸は「自分」だ。「自分の」気持ち、「自分の」思い。そ の軸を「神」に変えてみよう。「神の」御思いは?「神の」ご計画 は?神はどう思っておられるのか。神は何をしようとされているの か。神を軸におき、その神に自分の心を沿わせ、明け渡して行く時 に、今までの世界とは違って、神が見えて来る。 ------------- パンを食べては喜びこの方こそ王と言う人々から主は退かれた。自 分の基準で主を待ち望み喜んだり焦ったりで、どれ程主を悲しませ ているだろう。自分の中から出て主ご自身を待ち望む者でありたい。