2017年07月17日(月)

「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」マタイ6:8


生まれた時から偶像を見、育って来た私たちは、くどくどと、量を
多く拝めば、聞かれると勘違いをする。数珠を繰りながら唱えたり、
何時間もかけて拝む姿を見聞きするので、同じ言葉の繰り返しでも、
熱心に祈るなら聞かれるのでは、というのが潜在意識にあったりす
る。そして、自分軸の信心なので「神よ、ああして、こうして、あ
っちへ行って、こっちへ来て」式の祈りをする。

願いが聞かれないなら、そんな神は必要無いのだ。欲しいのは自分
に都合のよい神だ。自分に良いように人生が回って欲しい。人生途
上で神に出会ったクリスチャンも、長年培われた価値観が潜んでい
て、自分のための神になってしまう。ところが、そうではなく、祈
る先に必要をご存じの神だ。神が知らないから、必要を知らせるの
ではない。必要は知っていると言われている。

では祈りは何のためだろう。神が状況に無知かのごとく、くどくど
と説明する必要はない。熱心に祈って、祈りを手段として、祝福を
手に入れるのではない。あなたよりも、本当のあなたをご存じの神
が目の前におられ、その方は御子を殺すほどに愛して下さったお方
だ。親は子が心配する前に、子の必要を心配し整える。

私達は自分にとって何が真に必要で、何が最善かがわかっていない。
それを教えてくれるのが祈りだ。祈りの中で自分が変えられて行く。
祈りの中で真の必要がわかって行く。御心がわかり、その御心を求
めて行く。お願いする先に必要をご存じ、だから祈らなくてよいの
でなく、「だから、祈りなさい」だ。
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すでに御霊に導かれその中で生きているのに、気づくと自分の声ば
かりを聞いている。自己都合の祈りが祈りながら変えられていくの
は主が最善を準備して聞いていてくださるからだ。何と愛されてい
ることか。