2018年12月17日(月) 「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」イザヤ40:31
「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」イザヤ40:31
鷲は幾ら高く上っても疲れることが無い。それは自分の力で飛んで いないからだ。自分では動かず、じっと風の流れを待っている。そ して気流が来たら、その時に、その上昇気流に自分の翼を合わせ、 それに乗っかって一気に舞い上がる。翼をバ行く。これが主を待ち 望むことだと言っている。 自分でどうこうするのでなく、焦りも、急くことも、慌てることも せず、又、心配もせず、ただじっと風を待つ。つまり御霊の導きを 待つ。風が、御霊の導きが来たなら、主に身を任せて、主の力を信 じて行動する。自分で翼をバタバタと、バタつかせるのではない。 主の力に委ねる。だから疲れることが無い。 「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる」、どんなに若く て力があっても、風を無視して、気に留めず、自分の力で、高く上 ろうと力一杯、翼をバタつかせていたなら、どうだろう。必ず疲れ 果ててしまう。信仰生活を、自分の力で頑張るなら、力尽きてしま う。 なかなか主に従う事ができない、隣人を愛する事ができない、デボ ーションが持てない、思い煩いや心配に支配されてしまう・・これ ら自らの姿を、自分の弱さを、ことごとく主の前に認めて行けばよ い。弱さをあるがまま認めて、主を信頼して行く時に、風が吹いて、 気流に乗せられて行く。御霊の助けが臨む。もたつかせるのは、最 初だけで、気流に身体を乗せて、大空へ高く舞い上がってむ。 ------------ 主を待ち望むということは、焦らず、諦めず、自分でジタバタする ところから解放された姿ではないだろうか。主に献げる信仰だけを 頼りに主と共に風に乗ろう。