2020年09月16日(水) 「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32
「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32
失望に囚われ、落ち込んでいる時、主が見えなくなってしまう。経 験あるだろうか。失望は、サタンの非常に有効な攻撃手段だ。エマ オ途上の弟子たちは、失望落胆、絶望の中にいた。主が、強大なる ローマ帝国をくつがえして、地上に王国を建てられると信じ込んで いた。主が統治支配されるのだと。 しかし現実は最悪で、最も残酷で惨めで、辱めの十字架刑で死んで しまわれた。何という事だろう。自分たちの思いの対極だ。自分た ちの希望、期待、喜びが無惨に砕け散ってしまった。復活は信じて いないので、絶望と空虚しかなかった。信仰の目がふさがれ、さえ ぎられ、不信仰に陥っていた。私たちも、自分の思いと全く異なる 現実を突き付けられる時、受け入れる事が難しい。主と自分の間に 距離が出来てしまう。 例えば状況が苦しくてたまらず、別の職場を求めている時に「忍耐 が必要、主の訓練であり今の場でなければ学べない事がある」と言 われても受け入れ難い。苦しい経済的困窮の中で、「わたしに頼る ことを学ばせるため」と言われても辛いものがある。ところが落胆 していた弟子たちが、心が赤々と燃やされ、喜びに溢れ、急転直下、 もと来た道を大急ぎで引き返した。なぜ突然変えられたのか。 主の語られる御言葉だった。主が解き明かされる御言葉に耳を傾け て行った時に、「信仰」がよみがえった。私たちも極めて厳しい状 況の中で、実際、御言葉により救われる。皆が経験するところだ。 今、御言葉に耳を傾けよう、御言葉は霊でありいのちだ。信仰を取 り戻させ、更に心が新たに燃やされる。 ----------- 暗い心でとぼとぼ歩いているような時は、落ち込んでいる事にさえ 気づけずにいるのではないか。御言葉に向かおう。今この時も共に 歩んでおられる主に会える。御言葉を心に点そう。