2020年12月13日(日)

「立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦し てやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あな たがたの罪を赦してくださいます」マルコ11:25


誰かに対する恨み事があるだろうか。それは誰かを、決して赦して
いない事になる。もし自分自身に対して、主からのあわれみ深い赦
しを受け取っているなら、それは必ず他者への赦しとなって現れる
と。つまり、他者を赦せないという事は、自分自身も主からの赦し
を受け取っていない事になってしまう。

それは主との交わりの妨げになる。ある働き人が、特別な集会での
説教を依頼された。求道者には救いを、信仰者は新たにされるよう
に、力強い主の働きをと、皆が祈りに祈り、祈りが積まれて行った。
その説教者自身も準備のために主と交わり、祈りに祈っていた。

段々と具体的に説教の内容に入ろうとするが、どうしても語る言葉
が与えられない。期日も迫る中、尚も祈るが示されない。どうすれ
ばよいかわからず、心が探られるよう、何か妨げあれば教えられる
ようにと切に求めた。すると心の底に、赦せない頑なな思いがある
事が示された。

心の奥にしまい込みふたをし、普段は気づかずにいたが、紛れもな
くある人々に根深い恨みを抱いていた。批判され、誹謗中傷された
事への怒り、恨み、赦せない思いだった。主の御前に涙ながらに悔
い改め、赦しを祈った。心がすっきりし、晴れやかになった。喜び
が来て平安が満ちた。語る言葉が授けられた。主は取り扱って下さ
る。取り扱いにあずかろう。

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恨み事がある時、赦す事は難しい。赦したくない頑なな自我がある。
自分には出来ない事を認め、祈って行く時に、不思議が起きる事を
経験する。祈りは力だ。主が働かれて、みわざをして下さる。自分
では無い。祈りによって、主に拠りすがろう。