2021年06月16日(水)

「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか」ミカ6:6



罪を犯した時に、その罪が赦されるために、何が必要なのだろう。
一歳の子牛か、いやそれでは足らず、幾千の雄羊、幾万の油かと。
ミカはどこまで行なえば、受け入れてもらえるのかと言っている。
それでも足らずに、自分に生まれた子を献げるべきなのかと。罪意
識にさいなまれる時に、何とかしてとがめを消し去りたい。

そのために、子どもをいけにえにするところまで行き着いてしまう。
しかしそれは、「邪悪な良心」だ。邪悪な良心とは、神を認めない
事だ。キリストの十字架の贖いは、キリストの血潮は、罪を完全に
赦し、解決を与える。しかし、それだけでは赦された気がしないの
で、何かを足して加えようとする。行ないを足そうとする。

つまりは、神を認めず、神の赦しを信じない事だ。それなら主の十
字架は無駄で、無意味だと言う事になる。そうでなく、主の十字架
の贖いを信じ、罪の赦しを受け取り、赦された事を感謝して、感謝
して、主と共に歩んで行く事だと。

「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるの
か」、いけにえを献げて、受け入れてもらうのでなく、へりくだっ
て、主と人とに仕えて行くこと、主と共に歩むことを喜ばれるのだ
と。
-----------
自分が罪に対してできるのは、神の罪の完全な赦しの約束を、信仰
を持って受けとるだけだ。感謝しよう。神によって赦され生かされ
ている恵みに感謝して生きよう。