2022年01月17日(月) 「それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そし て、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり 見えるようになった」マルコ8:25
「それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そし て、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり 見えるようになった」マルコ8:25
ベッサイダで、人々が盲人を連れて来て、主に触って下さるよう願 った。主は盲人の両眼につばをつけ、両手を彼に当てられた。「何 か見えるか」と問われると、彼は「人が見え、木のようだが、歩い ているのが見える」と言った。見えるが鮮明ではない。人が、木の ようにぼんやりしていた。見えつつあるが、まだ十分でなかった。 そこで、主がもう一度両手を彼の両眼に当てられた。彼が見つめて いるとすっかり直り、はっきり見えるようになった。いやされた。 主に直接触れられた時に、ぼんやり見えるようになり、彼が尚も 「見つめて」いた時に、「はっきり」見えるようになった。私た ちはどうだろう。主をじっと見ているだろうか。 忙しくて、そんな時間など無いだろうか。主が、何だかぼんやりし ているのは、そのためだろうか。デボーションも、なすべき事が気 になり、形ばかりになり、心が立ってしまっているだろうか。主は 彼の目を開かれたように、私たちのぼやっ〜として見えない心の目 も開いて下さる。 ぼんやりしていたのが、御言葉により少しづつはっきりとするよう にされる。「彼が見つめていると」のごとく、彼は、ぼんやりした 中も、失望せず見続けた。今、まだよく見えなくても、御声に耳を 傾け続けよう。時をかけつつ、主は必ず少しづつはっきり見えるよ うにして下さる。なすべき事は主を見つめ続ける事だ。 ---------------- 暗闇に生きていた者が主を信じ光の中に生かされていく。ここまで 手を引いてくださった主に感謝だ。必ず主は導き続けてくださる。 主から目を離さず見つめ続けていよう。