2022年04月16日(土)

「『その人にあわれみをかけてやった人です』とイエスは言われた。 『あなたも行って同じようにしなさい』」ルカ10:36


当時ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係にあった。そのサマリヤ人が、
負傷した敵であるユダヤ人を助けた。サマリヤ人の動機は「同情」
で、何の下心も無かった。あわれみ=かわいそうに思う心+行動だ。
単に感傷的な同情でなく、行ないが伴う。

彼は、助けを必要とする人に自分に出来る事をした。関わるのを避
けず「近寄っ」た。ぶどう酒は消毒用に、オリーブ油は薬とし惜し
げもなく使った。自分の家畜を用い、予定を変更し、宿に同行、一
泊し、親身に介護の上、費用も全額負担した。中途半端でなく、最
後まで至れり尽くせりだ。

愛するとは犠牲を払う事だ。自らの金銭、労力、時間を突然の必要
のために、彼は惜しまずに献げた。犠牲を払わずして愛する事は不
可能だ。愛するとは献げる事だ。そして彼は自分の仕事をするため
に出向き、責任を果たし、再び帰りにお世話をした。自分の責任を
放り投げて、人の世話するのではない。

自分を最も必要としている家族を顧みず、人の世話ばかりに回るの
はおかしい。まず家族への責任は果たし、尚且つ、周囲へと、自分
に出来る事をして行くことだ。御霊が秩序正しく導かれる。今、何
か示しがあれば「近寄って」、従おう。

祭司とレビ人は面倒で、関わりたくなくて逃げた。言い訳は幾らで
も出て来る。誰が自分の隣人かではなく、自分が隣人になる事が言
われている。祈りなくして出来ない。従えるよう助けを求めよう。

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愛するとは、時間を献げ、労力を献げ、持てる物を献げる事だ。献
げずして愛することは出来ない。自分に愛が無いことを認め、主に
求める時に、主がそうできるよう助けて下さる。「愛は神から出て
いるのです」。