2022年12月17日(土)

「・・神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることができないよ うな試練に会わせるようなことはなさいません・・」Tコリント10:1 3



御言葉によると、信仰人生においては、様々な試練や問題が来ると
言っている。必ず臨むと。その時に、誰しも痛い事は避けたいし、
逃げたいものだ。試練は決して嬉しくない。御言葉もはっきりと
「喜ばしいものではなく、悲しく思われる」と言っている。だが、
避けたり逃げたりしていると、ただ痛いばかりで、何の益も無く、
御霊の実を結べない事になってしまう。

「わが子よ」と言われ、「主の懲らしめを軽んじるな」と。又、逆
に、重荷と苦しみに、もうだめだとばかりに「弱り果ててはならな
い」とも。軽んじる事なく、弱り果てる事なく、しっかり受け止め
るようにと言われている。ある人が「自分は試練に次ぐ試練で、弱
り果ててしまっていて、もう自分を無感覚にしてしまっていました。
何も感じないようにと。

主を仰ぐ事も、主に向き、試練に向き合い祈る事もせず、何も考え
ないよう、逃げていた事に気づかされました。「逃げたい」「試練
に向き合えない、弱い者です」と、主に祈る事が大事なのだと教え
られました。今からは祈って行ます」と。

「受け入れるすべての子らに、むちを加えられるからである。訓練
と思って耐え忍べ」と言っている。訓練の時は、主にぐっと大きく
近づける時だ。信仰人生を振り返る時、主に最も近かったのは、厳
しい試練の時ではなかったか。耐えられない試練は無い。脱出の道
もある。各自に受け止められる容量の試練だ。壊れてしまうほどの
ものは、まず来ない。そして後に「苦しみにあったことは、しあわ
せでした」と必ず言えるようにして下さる。

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耐えられない試練が無いから、今がある。糸の切れた凧のように、
飛び去ってしまっても不思議は無いのに、保っていて下さる。段々
と自分ではへりくだれないから、試練は恵みだとわからせて下さる。
痛くて、嫌だけれど、真に恵みだと思えて来る。