2024年05月17日(金)

「今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなた がたが悲しんで悔い改めたからです。」Uコリント 7:9


「悲しんだ」からでなく、「悲しんで悔い改めた」から喜んでいる
とある。悲しむ事と、悔い改める事とは別だ。悔い改めとは、心を
変える事だ。後悔ではなく、方向変換であり、神に立ち返る事だ。
そして後悔とは、罪自体を悲しむのではなく、罪の結果を悲しむ事
だ。罪の結果は、秩序の乱れ、破壊、悪い実を結び、周囲も巻き込
み苦しめ、悲しませる。その結果がまずかったことを悔やむ。

つまり、結果が悪くなければ、そのままだ。罪は結実があり、悪い
実を結んでしまう。それが、目に見えて人前に現れることが、体裁
悪く、恥ずかしい。結果がまずかっただけで、罪を悔いているわけ
ではない。つまりは悪いとは思っていない。だから「世の悲しみ
は、死をもたらす」と言う。

「神は、いのちに至る悔い改めを・・お与えになった・・」とあり、い
のちに至る悔い改めは、神から与えられるものだ。それは御霊の働
きだ。罪を悔い改める事ができるのは、神の愛、主の十字架の救い
と赦しがあるからこそだ。放蕩息子は、財産をもらい受け、父のも
とを離れ、したい放題、好き勝手をし、最後には何もかも失った。

雇人にまで、愛深く接する父親を思い出し、自分の愚かさに気づい
た。「罪を犯しました。子と呼ばれる資格はありません。雇い人に
して下さい」との言葉を用意した。しかしそれを言う前に、父親が
走り寄り、息子を抱きしめた。無条件で受け入れられたその時に、
真の悔い改めが起きた。御霊は主の愛により、悔い改めに導いて下
さる。
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子と呼ばれる資格はないと後悔ばかりしているのではなく、父親に
立ち返った息子のように、御父に向かおう。そこには赦しがある。
主に悔い改め平安を受け取ろう。