2024年09月16日(月)

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩 んでいます」Uコリント5:7



ある人が、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」との御言葉は、
何と素晴らしい恵みの言葉と、頭ではわかるのだが、どうしても自
分の事として受け取れなかった。自分が高価で尊いなどと、思えな
い。生い立ちから培われた価値観に妨げられる。主を信じているの
だが、何か心寂しい、孤独感もある歳月だった。

頭では、神は愛だと思うのだが、実感が全く無かった。しかし苦し
い時に、すがる祈りが何度も答えられた。確かに主はおられると思
うのだが、何かさえぎるものがあり、もう一つわからない。そんな
時を経る中、ありのまま洗いざらいを、告げて祈っていた。その時
に、心照らされ、自分が高価で尊いと、全く信じていない事を示さ
れた。

主の言葉を受け取らない、信じていない自分。なぜかと思うと、自
分が、そう思わないから、そう感じないからだった。結局、御言葉
を退け、自分の思い、感覚を上に置いていた。それなら、主の真実
を否定する事になる。主の事がもう一つわからず、実感がないその
底に、自らの「不信仰」が横たわっている事に、初めて気づかされ
た。

心から悔い改めた。感じる感じないでなく、御言葉をそのまま受け
取ります、信じます、愛を感謝しますと祈った。その時から、自分
が変えられた。主の愛が頭でなく、心でわかり、御霊によってわか
るようにされた。以前とは全く違い、御言葉がしみ入り、響いて来
て、力とされた。主の愛がわかるようにされて、大きな変化だった。
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気持ちが御言葉を弾き飛ばすように思える時があるが、その時々の
自分もまた示され、平安がくる。主が共におられ、いつも愛されて
いる。だから心強い。主を愛して歩もう。