2025年02月14日(金) 「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、 御前で聖く、傷のない者にしようとされました」エペソ1:4
「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、 御前で聖く、傷のない者にしようとされました」エペソ1:4
主からの「祝福」というと、どのように連想するだろう。嬉しい事、 喜ばしい事、良い事、ラッキーでハピーな事。例えば、受験合格、 商売繁盛、無病息災、家内安全・・つまり順風満帆、自分の思い通り になる事だろうか。自分の思考の中に、そんな価値観が無いだろう か。だが「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの 道は、あなたがたの道と異なる」と、主が言われる。 それなら、自分の思いとは、かなり異なっているはずだ。私たちに は「自分の思い」という強固なものがある。自分軸で物事を考え、 視点を自分において判断する。だから自分中心だ。しかし事態は神 中心に展開する。だから、自分中心の物差しでは量れず、わからな い。私たちの信仰人生の中で、主を信じ、みこころに従いたいと主 のみこころを求めて歩む。 その時に、もし、自分の願いや思いと異なる状況が来たら、それは 主からの答えかもしれない。又、試練が来たなら、それは答えだ。 試練は良いものだと言われている。それを主からのものと受け止め、 従って行く時に、思いを超えた豊かな「祝福」にあずかる。 人間は自己中心なので、主を幾らでも利用して生きて行く。肉は主 を利用してしまう。時に、自分の思いと主の御思いのずれ、違い、 それこそが実は祝福だ。自分の利得ではない、主の御心に自分を合 わせて、受け入れて行く。そこで少しづつきよめられ、自分中心で なく、神中心に生きる者へと変えられて行く。 ----------- イライラと平安が無くなるとき、思い通りではない状況を知る。な お自分を通そうしていくところから、主の道を求め、御心へと明け 渡したい。神中心に立ち返る時だ。