2026年02月14日(土)

「『さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほ ふって、何もかも整いました。どうか宴会にお出かけくださ い。』」マタイ22:4



たとえ話で、王が、王子の婚宴に人々を招待する箇所だ。
結婚披露宴であり、人生での大きな喜びと幸せの場所だ。
大ご馳走が用意され、そこに招待される。当時、王宮での
祝宴は、入口で全員に礼服が与えられた。人々は着替え
て祝宴に出た。その中、一人私服の者がいた。自ら、王の
礼服を拒んだ。

これは王に対する侮辱で、非常に失礼な行為だ。外の暗
やみに放り出された。礼服とは、主イエス・キリストの贖い
による義の衣だ。神は、キリストの代価により「義」を用意
された。私たちがする事は何もなく、受け取るのみだ。この
礼服を不要と拒み、私服のまま、御前に出る事は、自分の
義に頼む事だ。礼服を着るとは、主イエスを信じる事であり、
王の愛顧に感謝する事だ。

元々選ばれも、招かれもしなかった者が、主の祝宴に入れ
られるとは、特別な恵みと大きな憐れみによる。主が招いて
下さるから、私たちは無代価で救いにあずかれる。もし自分
の何かにより選ばれるなら、御前に出る事は不可能で、絶
望しかない。信仰により生きるとは、主の祝宴にあずかる事
だ。祝宴とは、第一に喜びだ。喜びに入れて下さった。救わ
れた私たちは、どうだろう。

恵みが、「当たり前」になっていないだろうか。すると倦怠と
なり、喜びや感謝が、日々の感動が消える。不平不満愚痴
でいっぱいになる。礼服を着ていない者になっていないだろ
うか。祝宴に入れられ、どんなに驚くべき恵みで、感謝な事
か、どんな所から救われたのか、救われていなかったら、ど
うなっていたのか、今一度恵み覚え、恵みを数えよう。

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肉は、自分の思いと自分の力で、歩もうとする。自分が認
められ、評価されたい。それなら御霊の実を結ぶ事がない。
主に従い、明け渡して歩む時、恵みと喜びを経験して行く。