2007年06月16日(土)

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり・・自分のいのちを与えるため」マタイ20:28

弟子達の関心は、誰が一番偉いかであ
った。それが常に関心の的であった。
ゼベタイの子、ヤコブとヨハネが栄光
の座で右と左に座らせて欲しいと願っ
た。母親まで出て来て子達のために願
ったのだ。主がこの世界の王となられ
た暁には右大臣左大臣にと。すると主
は的はずれな求めに、何を求めている
かわかっていない、これから飲む杯を
飲めるかと問われた。「できます」と、
主は十字架の事を言われたが、彼らは
勝利の祝杯だと思っただろうか。そし
て、残りの10人も同じものだった。な
ぜなら、ヤコブとヨハネの事で腹を立
て怒ったのだから。人の上に立ちたい、
支配したい、人の下ではありたくない、
これは誰しもにある欲望だ。なぜなら、
エデンの園でアダムとエバが蛇に誘惑
され、選び取ったものが、これだった
のだから。「神のようになり」たいと。
主はそんな彼らに、又私達に仕えるた
め、命を与えるために来たと言われた。
主が仕えて下さる。人を支配したい思
いが、自分にもある事を認めることだ。
どうにもならないその罪のために、主
がへりくだり、仕え、十字架で決着を
着けて下さった。へりくだれない私の
ために、主がへりくだって下さった。
この主の御前に悔い改め、従って行く
時、仕える者と変えて下さる。
・・・・・・・・
肉はどこまでも自己中心で、へりくだ
りたくないし、誰にも干渉されず、自
分の好きなようにしていたい。まして
や仕えるなど出来ない。そんな者が主
に従って行く中で変えられて行く。主
の奇跡だ。