2007年09月16日(日)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々十字架を負い、わたしについて来なさい」ルカ9:23


日曜信者という言葉があるそうだ。日
曜に教会へ行って、良しとするかも知
れない。平日は、神も聖書も、ぶっ飛
んで好きなように歩み、再び日曜には
教会へ。しかし、主は「日々」従うよ
うにと言われている。「日々」だ。信
仰生活、自分の都合の良い時だけ従っ
ているだろうか。都合の悪い時には、
目を閉じ、神を無視する。すべてが自分
の都合次第となる。つまり自分が中心に
生きている。自分が中心では、主に
従えない。自我が邪魔をして、主に
従わせない。自分の思い、自分の
好み、自分の意見が、真正面から主の
御心とぶつかって従えない。それゆ
え「自分を捨て」と言われる。自分を
捨てなければ、自我に死ななければ、
従えない。ある女性が同僚に、
いつも辛く当たられていた。余りにも
きつい言葉と態度に、辛くて帰宅する
と涙が出た。心の内を主に告げて涙
ながらに祈っていた。すると、彼女を
食事に誘いなさいと御霊の促しを受
けた。拒否反応が起きる。したくない。
しかし、「ついて来たいなら、自分を
捨て」の言葉が迫り、決心をした。
食事に誘うと意外だったが受けてくれ
た。そこで心を開いて、生い立ちを話
してくれ、彼女を理解できた。以後
一番の友となった。自分を捨てて、
御霊に従う時、神のわざを見て行く。
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「日々」自分を捨てるべき事柄を
御霊は示される。自我は逆らい、
自分を守り、自分を主張するが、
捨てる道を選ぶ時、平安と喜びを
経験する。みわざを見る。