2008年01月17日(木) 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません・・ですから、あわれみを受け、また恵いただいて・・大胆に恵みの御坐に」ヘブル5:16
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません・・ですから、あわれみを受け、また恵いただいて・・大胆に恵みの御坐に」ヘブル5:16
私達は天へ帰るまでは、古い性質と新 しい性質が、いつもあらがい戦ってい る。霊と肉の戦いにあり、主の再臨の 時に私達のからだは変えられる。それ まで私達に肉の弱さがある事を主はご 存じだ。この肉体は往々疲れ果てるし 病気にもなる。主は肉体をとって地上 に来られたので、この事を理解して下 さっている。あなたの弱さをご存じだ。 だからこそ、主を覚えて忍耐する事が できる。そして、主のゆえにいつでも 恵みの御坐に行く事ができる。私達は 活力と勢いに溢れている時は、主のた めに働き主に近いと感じ、逆に弱さを 覚え無力でいる時は、主を遠く感じる 事が無いだろうか。「お前のような役 立たずはだめだ、だめだ」サタンの声 が聞こえて来そうだ。ますます主から 離れてしまう。御言葉はどう言ってい るだろう。恵みの御坐に近づけるおお もと、根源は「あわれみを受け」「恵 みをいただいて」、あわれみと恵みだ。 自分の功績にいっさいよらない。一方 的な愛顧であり、プレゼントだ。主の あわれみと恵みがあるから、どんなに 破れた状態でも、御前に行く事が出来 る。これを信じるなら、「聞いたみこ とばが信仰によって結びつけられ」ど んな状態でも恵みの御坐に行くはずだ。 そして新たにされる。信じない者にな らないで、信じる者となろう。 ---------------------- 自分が霊的に元気であろうと、弱って いようと主の憐みはつきない。見えな いところで守っていて下さると信じる 事ができる。感謝だ。主を遠くに感じ ているなら「主よ」と叫んでみよう。