2008年02月15日(金)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24  

 

私達は「何のために」神に従っている
だろうか。平安や充足感、自分の欲し
いものを手に入れるためか。自分の願
望を叶えて欲しいためか。それなら、
神を自分のために利用することになる。
エデンの園で、罪が入って以来、自己
が心の王座に座り、神となり、自分を
喜ばせる事が満足であり、欲望を満た
すことが喜びとなった。与えるより受
ける方が喜ばしいし、絶対に損はした
くない。物事を損得で計算し対処する。
得はするが損はしたくない。出来るだ
け犠牲は払いたくない。労力も最小限
度に抑えたい。他人の益を計るのでは
なく、自分の益を計る事に忙しい。自
分の時間は奪われたくない。これらの
源にあるのは強烈な自己だ。アダムと
エバが選択した「罪」の凄まじい結果
だ。握ったものは決して手放さない。
責任は人になすりつけ、都合の悪い事
は人と社会のせいにし、都合の良い栄
光は自分が取る。罪の性質だ。アダム
からの性質は自己が神だ。自己主張、
自己実現、自己愛・・しかし、主は自
分を捨てて従う時、いのちを得ると言
われた。このような者が、損得ではな
く、神の御心を求めて判断し、損にな
っても御心を行なって行く。自分を喜
ばせるのではなく、神をお喜ばせしよ
うとしている。そのような者に変えら
れている。これは恵みであり、奇跡だ。
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自分を捨てることは、この世の価値観
では絶対に出来ない。私達も捨てられ
なくて嘆くのではなく、ため込めなく
て嘆いてはいないだろうか。主はこの
ような者の為にご自分を捨てられた。
この世に逆らい、主に従って行きたい。